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Franco et O.K. Jazz (1956-89)

Victor 'Vicky' Longomba, vocal(1957-70)
Gilbert Mabiala Youlou, vocal(1965-72)
Mose Se Sengo 'Fan Fan', guitar(1967-72)


Artist

VICKY & LOVY DU ZAIRE

Title

1971/1972/1973


lovy du zaire
Japanese Title

国内未発売

Date 1971 - 1973
Label SONODISC CD 36528(FR)
CD Release 1993
Rating ★★★★
Availability


Review

 ルンバ・コンゴレーズの、あの優雅でまろやかなヴォーカル・スタイルは、50年代後半にアフリカン・ジャズのグラン・カレことジョゼフ・カバセル、O.K.ジャズのヴィッキー・ロンゴンバ Victor 'Vicky' Longomba Besange Loukuli らによって完成された。
 
 ヴィッキーはフランコより1歳上の1937年生まれ。53年、会社で事務員をしていたかれを、レオポルドヴィルにCEFAスタジオを開いたベルギー人ビル・アレクサンドルに紹介したのは、のちにアフリカン・ジャズのメンバーとなるロジェ・イゼイディ Roger Izeidi であった。
 CEFAは数年で勢いを失い、やむをえずヴィッキーは工場で働くかたわら、ギリシア人オーナー、ベイシー・パパディミトリウのロニンギサ・スタジオに出入りするようになる。このロニンギサ・スタジオで働いていた若きセッション・ミュージシャンたちを母体として56年に結成されたのがO.K.ジャズである。ヴィッキーは結成時からのメンバーだったとも翌57年の加入だったともいわれている。
 
 60年、アフリカン・ジャズのグラン・カレの誘いで、ブリュッセルで開かれる独立円卓会議に随行する。このとき、いっしょにO.K.ジャズを脱退して参加したギタリストのブラッツォ Antonio 'Brazzos' Armando もまたCEFA時代からのロジェの知己だった。有名なスタンダード・ナンバー「独立チャチャ」'INDEPENDANCE CHA CHA' はその折りにヨーロッパでレコーディングされたもの。
 
 もともとフランコは今回のヨーロッパ行きに反対の立場だった。だから、帰国直後にアフリカン・ジャズを脱退してもO.K.ジャズへ戻るに戻られず(ブラッツォのほうはちゃっかり復帰)、そこで新グループ、ネグロ・シュクセ Negro Succes を結成する。
 メンバーには、O.K.ジャズからギタリストのボーレン Leon 'Bholen' Bombolo と歌手のジェスキン Hubert 'Djeskin' Dihunga、アフリカン・ジャズからサックス奏者のメンガ Andre Menga 、オルケストル・バントゥからギタリストのジャン・ディノス Jean Dinos、そのほか、歌手のガスピー Gaspard 'Gaspy' Luwowo 、ベースのアルフォンソ Alphonse 'Le Brun' Epayo、パーカッションのサミー Samuel 'Samy' Kiadaka らがいた。ところが、62年、ヴィッキーはフランコと和解してO.K.ジャズに復帰してしまう。
 
 カリスマ的リーダーに逃げられ途方に暮れたメンバーたちは64年、起死回生に若手の起用を思いきった。その若手のひとりこそ、フランコの6歳下の弟でギタリストのバヴォン・ションゴ Bavon Siongo、通称“バヴォン・マリー・マリー”Bavon Marie Marie である。オシャレでルックスもよかったバヴォンの起用は大成功。60年代後半にはO.K.ジャズをしのぐほどの人気を得た。
 現在、復刻されているネグロ・シュクセの音源はバヴォン時代の演奏ばかりで、ヴィッキーのものは残念ながら聴くことはできない(と思う)。
 
 さて、ヴィッキーに話題を戻すなら、かれがバンドを抜けていたあいだにO.K.ジャズはすっかりフランコ・カラーに染め抜かれていた。その後、ヴィッキーは71年(70年とも)に正式に脱退するまで、O.K.ジャズのサブリーダーとしてバンドを引っぱってきたが、この間、ヴィッキーとフランコとはつねに緊張関係にあったという。60年代も終わり近くなると、フランコが書いたナンバーはBoma Bongoから、ヴィッキーが書いたナンバーはViclongからというようにグループ内に分業体制が生まれていたようだ。あの優雅ななかにもスキが感じられない至高のサウンドは、ふたりのリーダーの和気あいあいの産物ではなかったのだ。
 
 70年10月にバヴォンを交通事故で失ったころ、ヴィッキーは病気療養のためヨーロッパに滞在していた。弟の死にショックを受けてスランプに陥っていたフランコだったが、ヴィッキーが不在時に吹き込まれたビチュウの'INFIDELITE MADO' とシマロの'MA HELE' によって完全に立ち直った(FRANCO & L'OK JAZZ "1968/1971" (AFRICAN/SONODISC CD 36529) 収録)。これまでのO.K.ジャズ・サウンドとは傾向がことなるこれらの曲がヒットしたことで、フランコはもはやヴィッキーの必要を感じなくなったのかもしれない。
 
 病気復帰後、フランコとの溝は決定的になり、ヴィッキーはO.K.ジャズを脱退。そして、71年の終わり近くに結成したバンドが、ここにとりあげたロヴィ・デュ・ザイール Lovy du Zaire である。
 このバンドについてはわからないことばかりだ。O.K.ジャズのメンバーだった歌手のユールーとギタリストのファンファン、それにアフリカン・ジャズ・フィエスタ・スキサのギタリストだったボポール・マンシャミナが短期間いたこと以外にメンバーはわからない。ただ、音の感じからして、O.K.ジャズの元メンバーがほかにも何人か混ざっていたことだろう。
 
 ヴィッキーはここでフランコが捨て去ろうとしていた60年代のO.K.ジャズ・サウンドを忠実に再現してみせる。ドラム・キットらしき音は聞こえても目立たず、コンガ、マラカス、クラベスなどのラテン系打楽器がリズムの中心を担う。ヴィッキーのソロまたはコーラスによる甘美な歌の合間に、フランコにソックリのメタリックなギターがはさまれる。ホーン・セクションのブレイクがはいるあたりから曲は熱気を帯びはじめ、ギターとサックスのインタープレイでしめる。
 まるで絵に描いたようなお約束どおりのルンバ・コンゴレーズに「これが本当にザイコ革命前夜の音なのか!?」と思わず疑いたくなる内容。
 
 でも、サウンドが古めかしいからって捨てたもんじゃない。ヴィッキーの自作を中心とする楽曲もよく、演奏のレベルも高い。3曲目の'CONSEIL D'AMI' なんか、60年代半ばごろにO.K.ジャズが好んだ泣きのボレロ。「いいものに時代は関係ないんだよ」というヴィッキーの声が聞こえてきそうな自信と余裕にあふれた円熟の歌と演奏だ。
 そして、全体に柔らかで浮き上がる感じの演奏を根元でグッと締めているのがベース。このベース、縁の下の力持ちのようにみえながら、じつはいちばん元気に踊りまくっている。だれなんだろう?わたしはビチュウあたりじゃないかと思っている。

 全15曲中12曲がヴィッキーのオリジナルで、ラストの残り2曲がユールー、1曲がファンファンの手によるもの。メイン・ヴォーカルはユールーで、ヴィッキーはサポートにまわっている。リード・ギターはおそらくファンファンだろう。基本的にはフランコ・スタイルだが、フランコより音が軽く饒舌な印象を受ける。 
 古色蒼然としていたそれまでの演奏にくらべると、曲構成にしてもアレンジにしてもあきらかに感覚が新しい。とくにファンファンの'NAKOBALA ATA MONGAMBA' は、ヴィッキーには皆無だったR&Bフィーリングがある。でも、ヴィッキーのバンドでこれをやる必然性はどこにあるのか。
 
 じつはこのあと、ファンファンはユールーやビチュウらをさそって自分のバンド、オルケストル・ソモソモ Orchestre Somo Somo を結成している。ファンファンらのこの動きは、ヴィッキー本人が体調を崩し、74年以降、ロヴィ・デュ・ザイールを運営していくのが困難になったせいであった。
 ヴィッキーの頭部に腫瘍が発見されたのである。そのときは除去手術がうまくいって順調に回復したのだが、2年後、今度は糖尿病が悪化して片脚を切断するハメに。さらに悪いことに、81年、頭部に新たな腫瘍がみつかった。このときはフランコの紹介でパリの病院で手術を受けることができた。費用はすべてフランコが持った。
 
 ミュージシャンとしての復帰は絶望的になったヴィッキーだったが、86年にUMUZA(ザイール音楽家協会)の会長に選ばれると、ふたたび音楽ビジネスにたずさわるようになっていた。しかし、88年2月、キンシャサのクリニックで倒れると、同年3月12日、ついに還らぬひととなった。フランコが世を去る前年のことであった。


(5.18.04)



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by Tatsushi Tsukahara